「新人賞で最も大切なのは・・・」

「新人賞で最も大切なのは、応募者の才能を見極めることだと思っている。 小説家の才能というのは、うまく書けていることではなく、他の書き手にはない独自の魅力があるということだと思う。 それは、なかなか難しいのだが、要するに作者が何を語ろうとしているかがちゃんとと伝わってくるということだだろう。 それがはっきりとしていれば、多少傷があっても作品として説得力のあるものになるはずだ。」https://kobun.or.jp/mistery_new/prize18/より引用 今野 敏氏による選評

ちょいと何年か前のものですが。

こういった言葉は、読んでいて励みになります。
無論の事、雑な話やいい加減な文章を書いてよいという意味ではあり得ず、
最終選考に残った作品に対してすらも欠点はきちんと指摘されている。
そういうの、参考になりますね・・・。
ただひたすら褒めてるだけの選評というのも賞によっては見られるわけですが、当然批判点がゼロという作品は存在しないはず。人気・有名商業小説だって突っ込みどころや批判点が存在する場合もあるわけですから。

最近よく聞くのが、「面白くなくちゃ意味がない」とか「売れるものでないと意味がない」という類のもので、それは出版社の立場から言えばそんなに間違ってはいないのかもしれませんが、
最近の企業で即戦力になる経験者ばかりを求めて、新人を育てようとしない傾向が強い事との危険な相関性も感じられるように思います。

言うほうは、楽だと思うんですよ。
早くカネになる奴来いよ、金になる奴だけ来いよ、って。
他の奴いらねーよ って。

でもその言葉を聞いて育つ人は誰一人としていませんね。


他方、あくまで「新人」賞やぞ、って事をきちんと明言する人も中にはいるんだと知ると、こっちももっと頑張ろう、って思いますね。

 

無論そうは言っても、審査が甘いという事は一切なくて、当然ながら多くの作品が落とされております;;

こういう類の選評は参考になるので、たくさん読んだほうが良さそうですね・・・・
ただ大賞を褒めちぎってるだけの選評は、選出された作品自体を読む事に意味はあっても、選評そのものにはほとんど価値はないと思うので。

 

ミステリの賞

ふむふむ。ちょっと情報が。
K社の賞の、去年の応募分、つまり今年の4月に大賞が決定するものについてなんですが、経過について御発表が。

「昨年9月に応募を締め切り、総数530編のご応募を頂きました。厳正な審査の結果、第一次選考通過作品13作を決定いたしました。・・・厳正な審査の結果、下記の4作品を最終候補作として決定いたしました。」

なるほど!
・・でも、あれ?
っていうか、まず応募作品少なくない・・・;;;??

5300の間違いじゃなくて?
ホラーとミステリ合わせて530って、ちょっと少ないですね・・・・。
ホラー単独・ミステリ単独で単純に265程度?
日本に人口1億人もいて、この賞を通じての作家志望の人達はそれしかおらへんの?

まあ、この賞は、一度他賞に応募した没作品や、同人や無料公開した作品でも応募禁止にしているので、そのために少ないという事も考えられます。つまりは、とりあえずこの賞での発表が第一になる作品しか受け付けないとゆう事なので。
(言い換えれば、他賞は逆に没作や同人作品も受け付けているので応募数が多く、それで結局選考も面倒になってバイト下読みに雑な仕事をやらせている可能性もあるのかもしれません。)

まあそれはいいとして。
一次選考で13に絞られるんやね;;;
残りは速攻で落とされるとは、これは厳しい。
ガチの天下一武道会みたいな感じやな。
観客には見えない密室で、ほとんどが予選で〇んでいく。
中にはチ〇パ王みたいに本来優勝候補級の実力を持ちながらも「予選落ち」の御方もいるのかも。
っていう事は、きっとほとんどの作品には講評もしないんでしょうね。
やっぱり、何かそういうのって出版社側から見ると無駄な作業かもしれません。
明らかに規定に違反しているとかで落ちる作品も、多少はましな作品も、ひっくるめて「一次落ち」っていう扱いですからね。

まあ、何か、そういう効率化でもしないときっと割に合わないんでしょうかね。
もしかすると売上も悪いのかもしれません。

ただ、500程度の作品に対して何か月もかけて「一次選考」やってるわけだから、一応全部読んでるんですかね。
まあ、その「一次選考」の中でも、何段階かに分けて審査はしてるんじゃないですかね。ただその詳細をいちいち公表したりするのが事務的な手間になるので内部で処理しちゃうってだけで。

まあでも、応募数が何千もあって、バイト下読みに雑に読まれて投げ捨てられてから数百くらいに絞られて、そこからが本当の審査だってなるよりは、
ハナから相手は数百程度って分かってるほうがええんやろか。

別の大手K社の有名ミステリ賞だと、結構様相変わるみたいですね。
応募規定も二重投稿だけはやめろとしか書いてないし、選考も少なくとも3次までやると書いてある。(尚、あまり関係ないですが、賞金の額が2倍。。)
違いは何なんやろ?
売上?
ただ、その賞も、平均の応募数はそんなに多くなくて数百という数字の情報もある。
ふむ・・・。

いずれにしても、下手にラノベ系の賞とかに手を出すよりは、こういった硬派の賞のほうが、モチベーション的にも私はいいかも。(そもそもラノベが好きならそっち系の賞に応募するのも良いでしょうけど、ジャンル的にそうでもないので。ファンタジーは好きですが。)

まあ、ちゃんと同人誌にする前提で活動をしっかり続けるつもりでいるとか、しっかり腰を据えて挑みたいと思います。
人によって計画や作戦の違いはあると思いますが、
私はあまりあちこちの賞に手を出すよりは、幾つかの本命に的を絞って、駄目やったら来年もう一度応募してみるとか、
同人活動とも兼ねて天下一武道会に胸を借りて腕試しに臨むつもりでやってみたいと思います。

電子書籍での同人活動すっかり忘れてた

電子書籍での同人活動すっかり忘れてたけど、

時間があるからやってみようかなー

全く売れへんかったらいつも通り紙でやればいい

 

推理小説とかシリーズにしてみたいでw それオンリーの即売会ってあるのかな? 文芸フリマとか、ジャンルの範囲が広過ぎや。 しかも活字で勝負せずにイラストで客釣るような広報しおって。それでいて、結局来場者数もあまり増えておらんっていう

 

作品の数をまず揃えたいな。 新人賞への応募なんてあくまで作品製作に取り掛かる動機付けの1つや。
 
人が来ないところで売ろうとしたって、 どうやっても売れませんからね。 特に、新規参加者や久々の参加者には非常にきつい。 運営にサークル参加費として金吸い取られるだけ。 あんなもんタダにするべき。 来場者から100円でも200円でも徴収すればいい。
前も指摘したけど、 100円や200円の入場料すら払うのを拒否する人って、書店の書籍より割高な同人誌なんて絶対に買っていかないから。 言い換えると、同人誌の即売会って、その程度の金は気前よく払うくらいの経済力はある人が来るんですよ。 ほんまの貧乏人が行くのはブックオフとかや。

執筆状況(ミステリ)

2万字ほど進めて、やっと第1の殺人が発生しました!
頁数で言うと、仮に650字を1枚だとすると30Pで19500字だから、その程度ですね。

・・・で、それがミステリ作品としては「早い」か「遅い」かには、もっと色々な作品も読みながら考えたいと思います。
(応募規定では、全体の長さとしては、1600字×200枚という結構な長さのものが認められている。)

商業作品では、早いものでは1ページ目から、時には1行目から人〇んでるんですよね;;w

とっとと本題に入るという意味ではそのほうが得策なのかもしれませんが。

他方で、1ページ目で誰かが死んでて、その後では連続殺人事件でもないのにやったらと長い小説もあったりするんですよね・・・
この辺は、何が良くてナニが悪いのか難しいところのようです。

基本は当然踏まえなくてはいけない。

そのうえで、既存作家の水準を求めているのではない(!)などと、結構凄い事をきっぱりとメッセージとして要項に載せているのがすごい・・・。

「殺人」がどこで起きるべきかという事について、それまで2万字30頁を要したとして、それが「実にどうでもいい内容」であったら、それはマイナス中のマイナス評価であろうと容易に推測できます。。
コロしはいつになったら起きるんや?って話になる
それだったら1ページ目から即刻で人〇したほうが無難であるとさえ言えるのかもしれません。

しかし、多少腕組みして考えていますが、胸を借りるつもりで猛者達に挑むにしても、独自の創作活動を楽しむにしても、
「薄味」で挑んだら戦う前から敗北確定だし、楽しみや技術的な成長も望めない気もします。
ひょっとするとエグいくらいに濃くして丁度いいくらいではないだろうか。

無論の事、設定の説明だけをだらだらと初めから続けても味が出ない。
ぐっと情報はぎっしり詰め込んだうえで読んでて楽しいような、そんな始まりにできないだろうかと考える。
どうすればそのようになるのかという100点の正解など当然
どこにもないので、まあそれを追求する事自体を同人活動の楽しみと目標の1つにしても良かろうかと思う。
情報は、事件に直接関わるものだけでなく、キャラの人柄や経歴や考え方がそれとなく分かるような情報、舞台設定の情報、ホラー要素を入れるのであればその描写(文体というか)――それらが、ちゃんと話が進んで行く形で自然に描写できないものか?
意識としては、そんな事を考えながらの最初の2万字ほどになりました。

そういう意味では、「作者の価値観」の直接描写(キャラに喋らせるものも含める)って、本当に無駄な情報っていう感じがします。それを知って、誰も得しないって話ですね。
キャラに固有の価値観というのは当然あると思うんですが、価値観なんてのは往々にして人と人とで対立するもの。描写するならむしろそれを書かないといけない気がします。キャラ同士で馴れ合ったり共感し合ったりという事は当然あるだろうけれど(一種の流行の「味」かもしれませんが)、それもそれでどういう経緯でそうなって行ったのかという事の描写に意味があるのではないかと思う。
(※流行の「味」で言うと、例えば「男が嫌い、汚らわしいと思う」という価値観があったとして、それを作中に露骨に書き込む事で同じ価値観を持つ読者からの「共感」を得るというものが多い?気は少しします。)

ミステリの場合、ちょっとした説明の描写が実は事件解決の重要なヒントになるという事もあるので、他ジャンルの小説と比較して色々な舞台設定の所々の説明が意外に活きる可能性もある気がする。
極端な話、普通の小説だったら民家の間取りの情報なんていらねーよってなるわけですが、ミステリであればその情報が重要な場合もある。もちろん、わざと重要でない情報が混ぜられる事もある。

 

賞応募・・・いつまで「挑戦者」でいるべき?

 

人によって考え方や置かれている状況が違うというのは当然の前提で。

私なんかは「挑戦者」で一生挑み続けるつもりはないんですよね・・・。
元々同人活動してるから、作品の数が揃ったらそっちの活動に普通に戻ると思う。

私は新人賞への応募に関しては「職業作家への(唯一の)扉」と考えているというよりは、単純に「大会に参加する」つもりで臨んでいます。

だって、そうでしょ?一応名目は。採用試験やってるわけじゃなくて、一応の名目は1回1回開かれる天下一武道会みたいなもんでしょ。
仮に「越えられない壁」があったとしても、別に他のルートを探して先に進めばいいだけで。

だから、できるだけ勝ち進めるようにとか、場合によっては優勝も狙うとか、それを通じて自分の技術も磨くっていうのはありますけれども、
「エリート官僚になるために東大を受験する」
っていう感覚とは、全く違うと思いますね。
感覚が多分違う。

何だろうなあ。
東大とか京大や医学部目指すのは素晴らしいんだけど、5浪も6浪もした挙句に何の成果も見られないようなら、別の道で堅実に進んだほうが絶対にいいよね。
時間は有限だし、人間は年老いていくから。
新人賞への応募でも、似たような事が当然言える事かと思う。
【繰り返し強調したいが人によって状況が違うからタイミングとかは色々違って当然】

失敗し続けても、成果が上がってるならやめないで続けたほうがいいと思いますけどね。例えば、最初C判定だったのがB判定になり、安定してA判定が出続けるようになってるとかなら、もう1度か2度くらいはチャレンジしたほうがいいだろう。

賞の応募でも、最初1次落ちばっかりだったのが、次第に安定して先に進めてる感があるなら続けたほうがいいと思う。
マンネリ感が出てきたら、本人の気持ちにもよるが、中止するほうが懸命の場合もあるだろう。
ジャンルを変えてみたりとか違う会社に応募してみるとか、様々なパターンがあると思うが。

たまにですけど、最終選考には安定して残るんだけど大賞に至らない、っていう人がいらっしゃいます。
まあ結論から言うと私はまだそういう状況ではないんですが、そういう状況になったら、私だったら即刻同人のほうに戻りますね。
というのも、最終選考に残るくらいの作品であれば「質は十分」という事だと思います。爆発的にヒットする要素があるかは別問題として。
であれば、どこまで儲かるかは分からんけど、何とか自分で売ればええやん?
「質は十分(商業クラスに限りなく近い)」なら、問題はどこで(誰に)売るか、どう売るかってだけの話でしょう。
同人だったら、別にそこまでの質ではなくてもいくらかは売れます。ジャンルと売る場所と売る方法をきちんとそなえれば、の話ですけれど。
(ところかまわず、しかも雑な方法で売りに出す・・・ってのでは、当然売れませんよ。)

男と女と水戸光圀

――で、主人公を男性にすべきか女性にすべきかという事について、
「男女平等」という観点からはどっちでもいいやろという話ですが、
現実には平等ではないので、「どっちでも良くはない」という実情はあるかと思います。
(私の視点だと、「女性」は紡績工場とか炭鉱で働かされて極度に不当な扱いを受ける場合と、ただ「女だから」という理由で男性から甘やかされて極度に、ある意味「不当に優遇されている」場合があるように思います。要するに、扱いが「両極端」であるケースが目につくように思います。その差がどこから出てくるのかという事について、それが例えば「容姿」とか「体型」で決まるのであれば、それこそが男性による女性への真の「差別」だと思います。)

少し考えてみたのですが、例えば若い主人公と「親」の関係を考えてみます。
ここで「若い男性が母親べったり」という設定だと、かなりの高確率で「マザコン」というレッテルを男性からも女性からも貼られると思います。(「母親想い」という設定を書くにはそれなりの技量が求められるかと。)
ところが、同じ年の娘が母親と仲良くする分には、あまり問題ないと(なぜか)されるのが普通かと思います。
つまり、こういった小さなところで、キャラが「男性か女性か」という事はそれなりに作品に影響してくる事になります。

多分、「男性による真の差別」が横行している舞台や世界観のもとでは、
「かわいい女性」は実に扱いやすい存在とも言えます。
なぜなら、男性から(不当なほどに)優遇されて、治外法権で何をやっても許されるという感じだからです。無茶苦茶な設定でもそれで通したいなら、そういうキャラは便利かもしれません。極端な話、水戸黄門の「印籠」を顔に持っているようなものです。
反面、そういうキャラは、内面の奥深さや葛藤を描写するのには向いていないと思います。何をやっても、何を言ってもOKがでるわけですから、悩みなんて存在しないし、貫く信念なども持っていなくてOKなわけです。「印籠」を掲げれば全て解決ですから。知識も技術も力も精神的な強さも必要ない。「印籠」があるから。
ですから、多少の扱いにくさはあっても、ちゃんとした感性や信念を持つキャラを描写したいなら男性か、女性であっても「何か問題を抱えている」キャラのほうが優れているのかと思います。

「かわいい女性」キャラは、その属性自体が水戸光圀の印籠みたいなところがあるので「個性」をつけにくいという弱点もあります。
これは、漫画とかアニメだと特に顕著だと思います。
かわいいというだけで男性から人気を集められますが、それ以上の個性は、何もないです。全員同じであると言っても過言ではない。同じ絵柄の同じ目の同じ輪郭で、カツラを変えてるだけです。酷い場合には髪型もほぼ同じで名前変えてるだけ。
(映画の女優さんなどは、生身の人間だけに当然ながら容姿も良くて「個性」もある人はたくさんいますね。しかし「かわいい女の子キャラクター」だと没個性になりがちだと思います。)

推理小説の場合、万能で好き勝手が許される設定の「探偵」であれば「かわいい女性」キャラは意外と使えるのかもしれませんね。
「あたしは、『かわいい女性キャラ』なのよ。この『印籠』が眼に入らぬかぁ!!?」
――で、全て済むんで。
男性刑事がヤクザまがいの脅しで強引な事情聴取するよりも、よっぽど手早い。
ヤクザ面の男性デカに好んで秘密を語りたいと思う人は男にも女にも一切存在しませんが、「かわいい娘」になら話してもいいかと思う人はいるでしょう。
まあ、女性が女性に対して「妬み」を持つという事もあるので、作中の世界観によっては通用しない事もあるでしょうが・・・。

この「かわいい」というある意味強い属性は、悪用しない限りにおいては有効に使ってもよかろうかと思います。
例えば、子供とか動物でも、そういう属性に対して人は気を許す傾向はあるでしょう。それを悪用するのは良くないですが、善い事に使う分にはよかろうかとも思います。
中年デブオヤジ刑事を主人公にする限り、はっきり言って外見で人から信用されませんから、警察手帳とか体育会系/ヤクザ調の「脅し」で人を従わせるしかない。(暴力団を相手にする刑事ならそういう感じである必要もあるかもしれませんが、そうでもないのに一般人相手にやたらと威張る刑事キャラもいる。)
同じ男性刑事でも、もう少しましなルックス・年齢・性格であれば、もう少し自然な捜査もしやすいはずですが・・・。昔、人気シリーズになった推理小説のメインメンバーの男性刑事はそういうキャラだった記憶がある。
やっぱり、単に荒っぽくて威張ってるだけのキャラには、多くの人がついていけないんでしょうね。尚、水戸黄門は印籠は掲げるけれど、普段は優しいおじいちゃんで権力をふりかざさないという属性を持つキャラですね。

ここでちょっと変わり種のキャラとして、「かわいい」けれど「謙遜に振る舞う」女性キャラというのも、そろそろ人気になってよいのではないかとも私は推理します。
これは言ってみれば、「本当の意味での水戸黄門の女性版」でしょうか。
すなわち、いざとなればその「印籠」は使えるけれども、そう簡単には使わない。普段は、とにかく謙遜に徹する。
いざという時には、本当なら知り得ない情報も教えてもらえる と。・・・まあ、本当は外見で判断するのは良くはないですけれど、普段からの内面も伴っているなら、まあいいんじゃないでしょうか。
そろそろそういう時代が来ていいのではないかと思う背景には、現に水戸黄門とかスーパーマンのように「普段は力を隠している男性キャラ」がかつて人気を博して、今でもファンがいるという事実があります。(そういうキャラは二重人格とかではなくて、「力」の制御ができる。)
確かに現在では、ゴム状の肉と骨を持つ某海賊キャラのように、普段から「力」を行使してなんぼというキャラが人気であるのも同じく事実です。そういった「好き放題やる悪」がなぜか人気者になってしまう背景には、大きな社会不安とストレスがあります。しかしそういう「悪」には結局のところモラルがありませんから、余計に社会不安を増大させ人々にストレスを与える結果になります。
そういう意味では、そろそろ、よほどの事がない限り印籠を使わない水戸光圀的な要素を持つキャラが必要なのかとも思います。

男性キャラでも、事あるごとに警察手帳やら拳銃やら怒号で人を脅して話を進めるタイプのキャラは、顔と体だけで話を進める「かわいい女性キャラ」と結局同じだと思います。
つまり、個性がない。
だから、そういうキャラを使っても、それは過去の商業作品の焼き直しみたいなものにしかならない。キャラに個性がないので、ぐちゃぐちゃと設定を練って読者を煙に巻いて誤魔化すしかなく、そういう方向でやっていくのは結構キツい作業かと思います。

私は、応募作でも同人でも、「顔と体」だけの女性や「脅しと暴力」だけの男性ではなくて、もっと個性のあるキャラクターが主役の話を書き続けたいな。

 

アマチュア作家は「幸せ」?

「アマチュア小説家は自分の好きな事だけ書けて幸せだ」
こういう事言っているヒトがたまにおるんやけど、果たしてどうでしょうか?
まあ、商業作家でそんな事言ってるなら多分想像力もない三流だろうし、アマチュアが自分自身で言ってるのもどうかと思うし、創作活動をそもそもしない人間が言ってるなら論外中の論外ですね。

例えば、新人賞の受賞目指してる「アマチュアさん」。
そんなに、自分自身の好きなものだけ、書きたいものだけ書いとるか?
多分、そうではないと思うんです。
まあ、色々な事犠牲にしとるんとちゃう?
自分、そんなに幸せか・・?wって感じですねえ。
きっと、受賞を目指す過程で、色々と大事な物を捨てとるで。

同人やってる場合はどうでしょう。
私から言わせてもらうと「馬鹿野郎」って感じです。
「ほんまに好きなもんだけ作って、それで売れたら苦労せえへんわ!!ボケ」って思います。
好きなもん好きなように作れるなんて、やった事のない人間か、ただのラッキーで売れてる同人サークルが言う事です。
確かに、作りたいものの中で、少しでも売れるジャンルを選んで、その範囲内で自由な創作をして売りに出して楽しむという事はありますよ。
でも、売れないジャンルに手出すのは、私は正直怖いと思うほうです。
特に紙媒体の場合、売れ残ったら全部赤字とゴミになって帰ってきますから。費やした時間も、全部ショックに変わってのしかかってきますよぉ。ふっ・・・・。
「売上ゼロでも、自分の作りたいものだけ作る」というサークルさんも確かにおるかもしれん。
でも、それはそれで、かなり強烈なメンタル所有しとるで。
そういうメンタル持ってるサークルは、結構強烈ですよ。
「信念」を持ってるレベルです。
そういう人の事を、簡単に「好きな物だけ作れて幸せだね」だなんて・・・何も分かっとらんし、想像力すらもない奴の吐くバイ菌まみれのタンのような台詞や。
売上ゼロのショックと悲壮感を、私は知っています・・それはもう、ショックや;;!

新人賞を目指しているわけではないし、同人やってるわけでもない人ならどうでしょう。
この場合でも、果たしてそんなに「自由」ですか?
特に、無料投稿サイトに投稿するのが主流となっている今日この頃は。
好きなもん好きなように書くだけで、人来ます?評価されます?ランキング入りします?
結局この場合も、多くの人は別に「書きたいものを自由に書いて幸せ」というわけではないと思います。
「人気出る方法」のコツをつかんでハッピーっていう人はいらっしゃるでしょうけど。でもそれは「好き勝手に自由に書けて幸せ」という事とは違うと思いますね。
人気とか関係なく、本当の趣味で書きたいものを自由に書いて楽しんでいる人はいると思います。でもそういう人に対して、ヨソ者が「自由で幸せだね」だなんて言うなら「余計な世話やアホ」って感じですよね。「オマエに見てもらいたくて書いてるわけじゃないし。第一オマエと関わりたくないわ、どっか消えろやゴミクズ」って感じでしょうかね。

まあ、ある同人サークルで、「好き勝手に自由に描くようになったら売れるようになった」っていうところも、たまにありますよ。
それは、たまたまその人の「好き勝手」と購読者の好みが合致したんでしょうね。
そういう場合には、確かに「オタクは幸せやねえー」って言えるかもしれません。
でも多くの場合は、そうじゃないと思いますよ。
だってそれで上手く行くなら、誰も苦労しませんから・・・。

何やろなー
例えば、仮に出版社経由の職業作家になったとしますよ。
そのメリットと言えば、まあまずカネが入る事やな。
他には、やっぱり仕事として小説書くわけやから、他の仕事一切しないで小説の事ばっかりに力を費やしていいっていうメリットもあるでしょうね。
(※「副業しないと食っていけない」っていう人は、職業作家とかプロとフェッショナルとは言わないと思いますよ?出版社経由で売りに出した作品は、れっきとした「商業作品」でうけど。別にそういう人を馬鹿にしているわけではない。ただ、言葉の使い方の問題で。)
・・で、プロになるからには自由を犠牲にする、自由を犠牲にしてでもプロである/目指している私/オレ、超かっこE――
っていうその発想。
何なんでしょうね。
余程、普段の仕事も、一刻も早く辞めたいレベルで嫌々やっとるのかなぁ・・。
そりゃ、仕事中には好き勝手にしていいって意味での「自由」はないけど、それなりに熟練した人間であれば、「やりがい」くらいは持つのが普通ですよね。(熟練していなければ話は別です。)

何でしょうね。
例えば大学でも、「大卒」っていう肩書だけ欲しくて、学問なんかやるつもりもないのに進学する奴おるじゃないですか。
それと似ていて、「職業作家」という身分を名乗ってみたいがためだけに、アマチュア執筆活動をしている人っていうのもいるのかもしれませんね。
そういう人は、一発でかいの当ててカネになる事をちょっと夢見てるわけでもなく、小説の執筆に専念するためにプロを目指しているわけでもなく、――ただ「肩書き」が欲しいから書いている。
で、そんな目的のために、そんな苦労して受賞目指す必要あるんですか?という話ですが、「そういう苦労している私/オレ括弧E――」。
で、他のアマチュアの方々を皮肉交じりにコケにすると。的を射た批判ならまだしも、そうであるとは言い難い。

まあ、何でしょうかね。
大学受験に失敗し続けて、ずーーーーっと予備校生で、次第に心もすさんでしまっている人。
そういう人が、新人賞の応募者にもいるのかもしれませんねえ・・・。